奥の部屋のその奥にこっそり隠された流し台で、占い師は蛇口をひねった。
少女と自分が使った湯のみが2つ、じょろじょろと水に打たれている。
捻(ねじ)れる水に打たれる湯飲みたちはなかなか心地よさげだ。
捻れる水と喜ぶ湯のみを愛でながら、占い師はある老婦人のことを思っていた。
前回ここを訪れたときにポストにメモがいれられてたのだ。
”○月○日の午後、また参ります”
メモには名前とともに、老婦人の字でそうあったのだ。
それだから、〇月〇日の今日、午後にここにきたのだけども。
老婦人は”先代”の顧客だった。
”先代”が居なくなった途端、あれほど多数だった顧客たちは、実にすばやく見事に一斉にいなくなったのだが、老婦人だけが違った。
彼女は遠慮がちだが辛抱強く、ぽつり、ぽつりと訪ねてきた。
何度目かの来訪の時に、とうとう占い師は”先代”の代わりに、彼女のためにカードを引いてしまった。
老婦人がなんだかとても気の毒に思えたから。
そして、それ以来、占い師は、”占い師”になっってしまった。
老婦人が”先代”に何を占わせていたのかは知らない。
”先代”の顧客の頃から、老婦人は老婦人だった。
時は流れたはずなのに、彼女の風情と風貌に変わるところがない。
彼女は今も、かつてのままの姿の老婦人だ。
老婦人はまだこない。
流れる水は、ただじょろじょろと捩じれ続けている。
いくつ駅を過ぎただろうか。
地下鉄なので景色は無い。
少女は目線を落としたまま、辛抱強く座っていた。
また次の駅が近づいてくる。
向かいの座席の母親が、たたんでいたベビーカーを拡げ、膝に居た赤ん坊を座らせた。
そして、ベビーカーごと少女の脇の乗降口前に移動してきた。
地下鉄がリズムを刻んで揺れる。
「カードと交換してくれるのはあなた?」
手すりに軽くもたれながら、少女のほうを見ないで、母親が言った。
そして、若い男が少女にみせたものと同じく封の切られた袋をそっと出した。
少女は男に言われたとおりの方法で中身を確認すると給食袋にしまい、替わりに丸い不透明なカプセルをひとつ、母親に手渡す。
地下鉄が停まり、扉が開く。
コインを一枚か2枚いれて、がちゃがちゃと取り出すそのカプセルとベビーカーと母親は、降りていった。
直に扉は閉まり、地下鉄はまた動き出す。
少女はまた目線を落とした。
給食袋の中のカプセルはまだ残っている。
洗った湯のみを持って時計の部屋に戻った占い師は、ソファに座るくたびれたスーツの男を見つけた。
男は丁度、急須から茶を、置いてある別の湯飲みに注いでいるところだった。
「やぁ、勝手にいれてるよ。」
くたびれたスーツの男は眼を茶が注がれる湯飲みに置いたまま、そういった。
「どうぞ、構いませんよ。」
占い師が答える。男は占い師の分も注いだ。
占い師は男の向かい側に腰掛けて、入れてもらった茶を手に取って聞いてみる。
「今日、占いますか?」
「いったろ?金がない。」
男は湯気を息で払っていた。
「たとえ持ってたとしても、占い師なんぞに渡す金はないよ。」
占い師が微笑んだ。
時計たちが刻む音の中に、茶をすする音が加わる。
「ここの茶はうまいね。」
男は掌の揺らめく琥珀を帯びた薄緑の液体をじっと見つめてつぶやいている。
「これ、結構安い茶葉なんですけどね。」
占い師もまた男がいれた茶を掌で包み、覗き込んだ。
茶をすする音が2つになってるのだけども、時が刻まれる音に飲み込まれてゆく。
「・・・”出す”ためでなく”飲む”ためにいれるから、か。」
ぼそりと言うその男は、自分のための2杯目を注いでいた。
占い師は微笑んでいるようにも澄ましているようにもみえる曖昧な表情で黙っていた。その表情でいる自分が結構気に入ってるのだ。
時計たちはてんで勝手に時を刻み続けてゆく。
「なぁ、」
とうに空になった湯飲みの底へ、男が呟いた。
「おれが引いたカードはなんのカードだったっけ?」
占い師は曖昧な表情を崩さない。
「いわない、か。そうだろうな。…忘れたんだろ?。」
男はひっそりと笑った。
「変わってるかもしれませんよ。…引いてみますか?」
穏やかに占い師はいう。
男は首を振った。
「変わってないよ。」
今度も男は占い師を見ない。
「おれが変わっていないもの。おれが”真に望むもの”とやらも、きっとそのまんまだ。悪いな、商売にならなくて。」
占い師は答えない。お気に入りの表情を保ってる。
ただ今度は微笑んでる、のほうに近いつもりだったけど。
「・・・ここの茶は本当にうまい。」
男は湯飲みの空の底をただ見つめる。
占い師が言葉を送った。
「以前引かれたあのカードには”創造のための破壊”という意味もあるそうですよ。」
男はやっと占い師をみた。そして静かに言った。
「”逃避のための破滅”だよ。」
時計の音を背に、男は立ち上がった。
「さてスチールのデスクに戻ろう。・・・ごちそうさん」
来たときと同じように音を立てずに男は帰っていった。
時は相変わらず刻まれ続ける。
老婦人はまだこない。
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