母親の様子が、はっきりおかしくなりはじめたのは、
それからそう長い時間はかかってない。

信彦が工場から帰宅するとよく電気もつけないままで 
押入れやタンスやらを引っ掻き回し、
中身と怒りの小言を周囲に撒き散らしながら 
なにかを探していたのが 始まりだったような気はする。

声をかけると 操り糸がぷつんと切れたように 
しばらく止まるのだが、
はっと悟ったかのように台所に走りこむと、
今度は猛然と食事の支度を、
それも大量につくりだしたりしてた。
そして2階から物音が聞こえると
(その頃は赤ん坊の泣き声も混ざるようになっていた)、
天井に舌打ちしてから、
出来上がった惣菜を次々と容器に詰め込み運んでいた。

料理は、種類も味も量も、
もはや幼児や赤ん坊の口に合うものとはとても思えなかった。
が 信彦はなにもいわなかったし、なにもしなかった。

物心ついてからずっと、
母親に対しては「何も言わないし何もしない」信彦には、
それ以外の術を思いつくことが出来なくなっていたのだ。

やがて 母親は朝も2階へ運ぶようになっていた。
「・・・朝ごはんも食べさせずに 送り出すなんて・・」
塩のように呪詛をまぶしながら米を握り、
玉子や鮭を焼いては、せっせと詰めて2階へと運んでいた。

母親が夢中で支度をしているそのとうの前に、
2階の主人は出勤しているので、
彼が信彦の母親の届ける朝飯を口にすることはないはずで、
信彦にはそれはよく判っていた。
そして、作って届けてる母親は、
そのことにまったく気がついていない、それも判っていた。

届けた容器は 朝にしろ夕にしろ、
ほどなく空で返されてるようだった。
2階のひとかコドモかが届けにくるのか、
母親が取りにいくのかはわからなかった。
誰が食べているのかもわからなかった。

2階の親子はずっと変わらず痩せていた。

2階のひとには本当に迷惑なんじゃないか、とは何度も思った。

けれど信彦は何もいわなかったし、何もしなかった。
2階のひとも、何もいってこなかったし、何もしてこなかった。
返ってくるのは 空になった容器と、天井越しのコドモの立てる音。
そうして数年が誰にも気づかれずに過ぎていた。

しかし やがて 信彦の母親の時計は完全に狂い、
真夜中すぎに2階へ食事を運ぼうとした時、さすがに信彦は止めた。
すると母親は猛り狂い、割れんばかりの声で喚きだした。
そして自分の声にさらに煽られる様に、
ますます激しく感情を高ぶらせていった。
そんな母親を目前にして、信彦は少しもうろたえない自分に驚いた。
哀しみや怒りや淋しさは 全く湧いて来なかった。
ただ、寝てると思われる2階のコドモたちとそのひとを起こしてしまう、
そればかりの不安があるだけだった。
喚き続けた母親は 肉体の疲れとともに 
徐々にその声のトーンを落とし、
やがてその場にへたり込んだ。

信彦は黙ったまま、母親の布団を敷いた。
母親を寝床へと促している頃、
2階の主人の靴音が聞こえてきた。


そして 信彦は 工場へ行けなくなった。

そのかわり痴呆に身をゆだねた母親と向き合った。

それは、生活から時計というものがなくなり、
自身が持つ体内時計をも破壊されて、
社会の中にいながら、決して社会と交わることのない
別の空間で生きなくてはいかねばならない、ということだった。  

2階への食料配給もその日より閉じられた。



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