朝 静寂の中で眼が覚める。
いつのころか時計が鳴るより早く、目覚めるようになっていた。
部屋の中は既に光で白く彩られ、今日の一日を始めなければと
寝床でぼんやり思ってる間に、耳が先に2階の主人の靴音を捉え出した。
カツ・・カツ・・カツ・・と革の靴音がゆったりとせかせかの丁度間の
リズムを刻み、じわりじわりと近づき、そっけなく遠ざかる。
そして信彦の耳と信彦は置き去りにされていく。

信彦には2階の主人の靴音が聞こえてくる。

マンションの住人は2階の主人だけではない。
信彦の住む棟は、マンションの構造上
エレベーターが2階と4階を通り越してしまうので、
世帯数こそ多くはないが、この棟の2階に住むヒトは全て
終日階段を利用せざるを得ない。

けれど、他の人の靴音が、信彦に聞こえてくることは決してない。
信彦の耳に届くのは 2階の主人の靴音だけだった。

その理由がなぜだろうと、脳の中を手繰ってみたことはある。
何度もある。
答えはでなかった。

しかし、それが答えのかわりなのかどうかはわからないが、
覚えている自覚も無かったひとつの記憶が浮かび上がってきた。 

通勤の行き帰りに 信彦は2階の親子にしばしば出会っていた。

それは早朝だったり、夕方だったりした。
時には角を、時には通りを隔てての、
挨拶どころか言葉も視線も交わさないすれ違いの出会いばかりだ。

そのときは何とも思わなかったし、感じもしなかった。
早朝や夕方にお散歩する幼児とその母にしか見えなかったし、
それがそんなに珍しい風景だとも思えなかった
しかしある時 偶然ちらりとみえた2階のあのヒトの表情に、
信彦は思わず立ち止まってしまったことがあったのだ。

嬉々として、跳ねるようにどこまでもどこまでも進む小さな娘の後を、
乳児という荷物を抱え込んで無言で従うそのひとは、
その面に、瞳に、何の感情をも宿していなかったのだ。
一瞬 何かとても奇妙なものを感じはしたが、
それでも信彦は気に留めようとは感じなかった。
しかし、母の徘徊らしきものが現れだして工場にいけなくなった頃のことだ。
その頃の母はしばしば発作のように家中ひっくり返すような勢いで何かを探したあと、
ふらふらと外に出て行くようになっていた。
夜が近かったり、雨が降っていたりするときもあった。
当然、最初信彦は外出を止めようとした。
けれど、ほどなく諦めた。
信彦は黙って後に続く方法を選んだ。
母の行く先は定まってはいないようで、
ひたすらどこまでもどこまでも歩いていた。

時間も気候もお構いなしだった。
どんどん言ってしまう母親の後を 信彦は少し距離を置いて、
ただただついていった。
相手が疲れきり、崩折れるように座り込むまで。
「・・さあ 帰ろう」
その言葉は、そのとき初めて相手に届き、
母親は放心した表情を残しながらも、ヒトに戻っていく。


そうだ・・。

記憶にそこまで辿り着いて、信彦の瞳は、ゆっくり開かれた。
母の後を追っている最中にも、2階の親子によく会っていたのだ。
雨の日もあった。日照りのときもあった。
日がな丸一日の日もあれば、深夜に近い日もあった。
明らかに、幼児のお散歩ではない時間帯や天候の日でも出会ってたのだ。
母の背中に集中せざるを得なかったので、
出会ったその時々には そのことに気がつく余裕が無かった。
信彦が母の後をゆくように、2階のあのヒトは、
小さな娘の後を、もっと小さな息子を抱いて歩いていた。
そしてはじめて信彦は、あの表情の理由がわかったような気がした。 
そのひとは動く彫像のようだった。
華やかにも見える深まりゆく夕暮れの陽光のなか、
やがて確実に訪れる暗い闇を十分承知しながら 
ただただ相手も自分も闇に包まれきるまで、
黙ってみてるだけの残酷な女神の彫像。

その夜、布団で休む信彦の耳に、母親のいびきをかいくぐり、
より鮮明に2階の主人の靴音が信彦の耳に届いてきた。

今、信彦は確信した。 
2階の主人の靴音は 信彦の耳にだけ届くのだ。
母は病院へゆき、2階の女の子は成長して幼児ではなくなり、
赤ん坊だった男の子も幼稚園に通ってる。
2階のひとは もう彷徨わなくてよくなったはずだ。
けれど、咆哮が降りてくるようになった。
彷徨う姿を見る代わりのように、深夜に咆哮が降りてくるのだ。
そして2階の主人の靴音は より鮮明に信彦の耳だけに届いてくるようになった。



さあ起きなくては。
信彦は自分の心に話しかけて布団からでた。

今日は早番ではないので急ぐ必要はなかった。
けれど目覚めてしまったのでしょうがない。
だからといって母の施設へと赴く気力は起きなかった。
少し早めの電車にのって、途中のちょうど開店時間となりそうな
どこかの飲食店で、朝昼兼用の食事でもすませるかと思っていた。

へやを出てカギをかけようとした時、信彦は思わずぎくりとした。
デタラメで調子ハズレの唄が聞こえてきたのだ。

”しまった・・・!”
信彦は急いで中庭へ向かった。
声の主はわかっている。
昨夜は2階はとても静かで、主人の帰宅も早めだった。
信彦はすっかり油断していたのだ。
自分はうっかり”ミス”をおかしていたらしい。



続きを読む      もどる