若い男に声などだせたはずもない。
立ち上がろうと浮かせかけた腰を落とし、地面に伏さないよう留まるのが精一杯だっだ。
くたびれたスーツの男は若い男の背中を、わき腹を、同じく踵で駆りつけ続けた。
そして若い男がこらえきれずに地に伏すと、今度は後頭部や横顔に踵を振り下ろし続けた。
かすかなうめきも飛沫の様な血飛沫も、耳に聞こえたし眼にも見えていたが、くたびれたスーツの男は、両手をポケットにしまいこみ精気のない表情のまま、踵を打ち下ろし続けていた。
くたびれたスーツの男は、かつて占い師から引いたカードを思い出した。
カードたちは何処までも続く虚無とやがて出現する破壊を指した。
そしてその後の啓示が何もない。
男は、いっそそれらがさっさとくればいいと願ったことを覚えている。
けれど今、こういう形でそれらが始まるとは予想もしていなかった。
振り下ろしているのは踵なのに、今男が感じるのはポケットの中の手だった。 
自分というヤツは、とことん 『手を汚すということ』が嫌なやつなんだなと、くたびれたスーツの男は、頭の中でぼんやり分析しながら、作業のように、若い男を踏みしめ続けた。 
相変わらず、人も車も通らない通りだった。
時折小さな渦巻きをともなう風が足元をすりぬけてゆくだけだった。

くたびれたスーツの男の足の動きが止まった。
左のポケットにしまった掌のほうに、ピンクの携帯が握られたたままだったことに気がついたのだ。
そういえば、あの子がいたんだった。
改めて周囲をみたが、立ちすくんでいたはずの少女は、もうどこにもいなかった。どうやら逃げたらしい。
賢い子だ。とくたびれたスーツの男は思った。
若い男がかすかに動いた。どうやらまだ死んではいないらしい。
日はもう暮れていた。
くたびれたスーツの男はピンクの電話の通話ボタンを押した。
「救急車をお願いします。」
男は静かに、しかしはっきりと語った。

現場の住所を伝えながら くたびれたスーツの男は、若い男が守るように抱きしめてる袋の口から再びこぼれでたものたちがみえた。
割れたカプセルとその中に砕けた錠剤のようなものをみた。
同時に、カードの袋とその中に入れられていたカードの大きさに折りたたまれた紙幣もみえた。
そうだ。茶代なら払ってもいいんじゃないか。
男は自分に言い聞かせる言い訳を思いつき、通話を終えると若い男が抱え込む給食袋から、カードの袋を2,3取り出した。

くたびれたスーツの男がその場に再び戻ったとき、救急車はもういなかった。
代わりに小ぶりのパトカーが少し離れて止められていて、制服の警官が3人、おもいおもいの作業中らしかった。
男はまっすぐ警官たちに近づいていった。
一番手前にいた警官が男に気がついた。
「すみません、」と男に向かって手を広げてきた。
その警官のその手に向かって、男はピンクの携帯を差し出した。
「電話したのは おれです。」
警官たちの表情に一瞬緊張が走った。
3人の視線が男の風袋をすべる。
一番年かさらしい警官が口を開いた。
「お話を聞かせていただけますか?」そしてパトカーの方向を促した。
男はおとなしく後部の座席についた。
警官たちが両脇に静かに乗り込む。
残るひとりが、無線を車外に引き出し、小声でなにやら話している。
男は一人の警官がまっすぐ自分をみつめているのに気がついた。
生真面目な表情がかえって幼いようにも見える。
男はその警官に尋ねた。
「おれは、ちゃんと”破滅”できましたか?」 
若い警官は完全に不意をつかれたらしい。
飲み込まれたような沈黙があった。
「私は、お答えすることはできません。」
それが若い警官の答えだった。
男はうなづく代わりに座席に深くもたれた。
通信を終えた警官が前方の窓から覗き込むようにして言った。
「誠に申し訳ありませんが、署までご足労願えませんか?」
男がうなづくと、覗き込んだ警官はとてもすばやく運転席に乗り込みベルトを締めた。
パトカーは静かに発進した。
夜の帳(とばり)が降りてくる、
変わらず人も車も通らない静かな静かな通りだった。
帳のなかをパトカーはとても静かに去っていった。


占い師はローブを脱いだ。
暗い階段をおり、看板をもって再び上がる。
ほとんど空になったポットを持ち、部屋の電灯を消した。
”午後”は終わったのだ。 
時計たちを残し、部屋にカギをかける。
老婦人はこなかった。
彼女が”来る”といってこなかったのははじめてだった。 
階段を降りきった占い師は もしやとおもってポスト覗いてみた。
けれどそこに老婦人からの伝言はなく、あるのは子供が喜ぶおまけのカード袋が2,3袋、つっこんであっただけだった。
占い師は苦笑したが、それでもおまけのカードたちを袋のままポケットにつっこんだ。
夜の空を見上げたとき、占い師は、ふと、老婦人はもう2度と来ない、と思った。
今日の売り上げは少女がだした200円。
地下鉄へと歩いているうちに、占い師は自分が降車する駅には宝くじ売り場があったことを思い出した。
そうだ、この200円に少したして、宝くじでも買ってみよう。
宝くじ売り場は何時までだったか?
まだ開いているといいのだけれど。
占い師の足取りは 来たときと同じように軽くなった。
もちろん下げてるポットは来たときよりも断然軽い。
占い師は軽やかに地下鉄への階段を下っていった。




         ー了ー

 

                                     2004.12.11

 




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