羊羹に添えられた黒文字で一棹の羊羹を三等分する。
一塊を紙の皿に載せ、残りをまた箱に戻す。
ハンドルを回しベッドを起こしてから、
今度は正面を睨みつける母親の視界に入る位置に皿をおいて、
もう一度その耳に告げる。

「羊羹だよ」

母親の目がぎらりと鈍く光り、視線が正面から皿の上に動くとほぼ同時に、
羊羹は わしわしとその口に運ばれていった。

「あら、いいのね、」

ちょうどそのとき入ってきた看護士の大きな声が部屋の空気を破る。

「いい息子さんでよかったね、田山さん。」

ー いい息子さん ー  

無意識に放たれたキーワードに 不意に母親の顔は人の母の顔になった。
満面にほころぶと、言葉まで発した。

「輝夫はほんとうに、ワタシを大事にしてくれる。」

看護士は、バツの悪そうな顔ですまなそうに信彦をみた。

「・・羊羹、また適当に渡してやってください。
あのぅ、うっかりすると一度に食べてしまうので。」
信彦は看護士にぼそりと告げた。
声に抑揚をつけないよう、顔に表情をださないよう気遣いながら。

看護士は元気よくうなづいてみせた。

「じゃあ、かあさん。シゴトあるから行くよ。」
母親ではなく看護士のためにそう言うと、信彦は部屋を出た。

輝夫は兄の名前だった。
兄は大学に入学が決まったときから、母親とは暮らしていない。
父親の葬式の日にだけ戻った。
就職の知らせは電話だった。
結婚の通知は年賀状だった。

信彦は一度だけ兄に電話した。
徘徊が過ぎて大腿部を骨折した母の、完治が望めないとわかったときだ。
母の現状だけ伝えた。

「わかった」
兄は短く答え、電話は切れた。

その次の日、ここの施設から 入所手続きについての連絡がきて、
それから母はずっとここにいる。

兄とその家族が(人づてに聞くと、子供も何人かいるらしい)
ここにきたことは、まだ一度もない。
それでも母の”息子”は今も昔も兄一人だ。



「オハヨウゴザイマス」

はじまりの挨拶は、昼でも夜でもオハヨウゴザイマスだ。

タイムカードを押し作業衣に着替えると、
まっすぐ倉庫へいき今日の分の荷の点検にはいる。
大小さまざまのダンボールの山は、昼夜を分かたず切れることもない。
このダンボールたちを、車から車へ 無事に移動させるのが信彦の仕事だ。
この仕事をみつけてきたのも 兄だ。
母を施設に送り込んだ後、兄の字で「ここに履歴書を送れ」と
走り書きされた会社概要のパンフレットが届いた。
信彦はもちろんいうとおりにし、ほどなく会社の人事課から連絡がきて、
そしていまダンボールを数えてる。

母の痴呆がひどくなるまで、正確には徘徊がひどくなるまでは、
信彦はずっと小さな工場でネジをつくってた。
進学先に迷わず選んだ工業高校
(公立の定時制で費用と試験内容が格段に安かった)で
斡旋してくれた工場だった。
在学中のアルバイトからだから、信彦の今までの人生の大半はその工場だった。

毎日ネジをつくってた。

コトンコトンと鋳型から離れ、行儀良く箱に並んでいく様は、
いつまでも眺めていられた。
けれど 物言わず美しくならぶネジから、
喚きながらどこまでもうろついて行く母を観なければならなくなって、
工場を辞めた。
母を観なくても良くなった頃には、
自分の位置には新しく雇われた者がもう来ていた。
常にうつむいてる、かつての自分のような男の子がもうきていた。

いまはネジのかわりに美しくもないダンボールを眺めてる。

感じないように務めさえすれば 時はすぐ流れる。



仕事をあがって帰宅する途中、コンビニに立ち寄る。
この時間ではコンビニしか開いていないのだが、それは苦にはならない。
さすがに朝も昼も抜かしたようなものだったので、空腹だった。
手ごろな立ち食いの店ですませたらいいのだが、
今日は家に飯だけ炊けている。

弁当のおかずにはやや飽きがきていたので、
適当なカンヅメ(ヤキトリやいわし)を数個かごにいれ、
”次のとき”のための紙パックや焼き海苔を補充する。
コンビニで売られるものの方が量的にはちょうどよかった。
店内の主席を占める雑誌や新製品の並ぶ嗜好食品群はほぼ素通りだった。
こんなとこでも自分の場所は、極端に地味なところにある。

それでも今日は菓子のところで立ち止まってしまった。
復古趣味なのか自分も知るキャラクターの玩具菓子を
知らず手にとっていた。

もうひとりの2階のコドモの姿が浮かんできた。 
今日は幼稚園に送ってもらえなかっただろう。
マンションの中庭のベンチに、時折一人でちんと座ってる
どこかきょとんとした男の子、
あのこに渡したら眼を輝かしてこの箱を取るのだろうか。

けれど 信彦は玩具菓子をかごではなく棚に戻した。

玩具菓子の隣には、冬の終わりを待てない新製品菓子たちが、
華やかな包装で並んでいた。
女の子が新製品の華やかな菓子を喜ぶことぐらいなら知っている。
手渡せばゴミ出しする少女は笑うだろう。
コドモではないもうひとりも、笑ってくれるかもしれない。

それは、夢を眺めるような感覚だった。

けれど、信彦は菓子に手は伸ばさなかった。

夢はみれても、さわることはできない。

信彦はレジにいき、自分の分に足るものだけの会計を済ませた。




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