朝、炊飯器が炊き上げた熱い飯を握りながら、
信彦は少し慌てていた。
うっかり寝過ごしてしまったのだ。

焦り気味なので、手のひらをやけどしそうである。
今日は午後勤務なので仕事のほうはかまわない。
けれど、急がなくては登校する時間がきてしまう。
間に合わなくては朝ごはんにはならないのだ。

なんとか2合に満たない量の飯を小振りのおにぎりに仕上げると、
紙パックに並べ、買い置きしてある焼き海苔とともに
スーパーのポリ袋にいれる。

そして静かにドアを開け、一歩を踏み出す。
もちろんその前には、周囲に十二分に注意を払った。
2階の主人が出勤する足音は、いつもの時刻にきちんと聞こえていたが、
今日はゴミの日なので、このマンションの住人の誰かが
ひょっこり顔をだしてても不思議ではない。
他の住人に迂闊に見つかるわけにはいかなかった。

一瞬かもしれない空白の隙間を縫うように階段をあがり、
2階のドアノブに袋をかけた。
そうして、信彦はすばやく、けれど決して音を立てないように階段を戻った。
信彦がかけた袋がドアにあたり小さな音をたてた。


自分の部屋にもどった信彦は支度を急ぐ。朝飯はあきらめてた。
今日は、自分の家のゴミもまとめて出さないといけないし、
出勤前に母の所にも立ち寄らなければならない。
支度に思いのほか手間取った気がして、焦り気味にドアに鍵をかけている
信彦の後ろをすり抜けて、ランドセルを背負った少女が
軽やかに階段を駆け上がって行った。

片方の手に鍵と羊羹の入った紙袋、もう片方の手にゴミ袋をぶらさげた
信彦の眼は思わず、階段を登っていく。
まるで ランドセルに吸い寄せられるかのように。

ほどなくランドセルの少女が、今度は2人で、
賑やかにふざけながら、階段を降りてきて、
そのまま信彦に眼をくれることもなく、
さんざめきながら行ってしまった。
信彦の眼は今度は、片手におにぎり、
片手にカラダほどもあるゴミ袋を提げる少女の後ろ姿を、
丹念に追いかけてしまう。手足の長い子だった。

細身でひょろりとした印象は変わらずだが、元気良く跳ねている。
ちゃんと海苔も巻かれたおにぎりをかじりながら、
提げるゴミ袋にふらつきながら笑っている。
ああ、ケガはしていない。
殴られたりはしないのだ。

少女たちは玄関ちかくに溜まる小学生の一団と合流し、
笑いあいながら登校していった。

2階からヒトが降りてくる気配はもうなかった。
 
2階のコドモは2人いる。

残るもうひとりと、そしてコドモではないもうひとりが
とても気がかりだったが、信彦にはそれ以上は何もできない。

信彦はようやく、再び慌てた。
急がなくては、ゴミ収集車が来てしまう。
バスの時間だってギリギリに近い。

あたふたと走り出す信彦を見送るのは、
中庭の木の枝に止まるカラスの役目だった。



「用紙に記入してください」

信彦は、面会者記録と表示された用紙に、受付係の要求どおり、
患者である母の氏名と病室番号、自分の住所と氏名、連絡先と記入してゆく。
持ち込み物欄には 羊羹 と記載した。

「田山さん、先生に会われますか?」

受付の職員に尋ねられて口ごもる。
お願いしますというべきなのは知っていた。
けれど本当にどちらでもよいのだ。
それでもいつもは、良識ある大人の一員として、
「はい。お願いします」と答えるのだが、
今日は 思い切って言ってみた。

「欲しがってた羊羹を届けにきただけで・・。
仕事もありますし・・。」

「そうですか。」

受付の職員はどこまでもにこやかで、室内はどこまでも明るい。

小さなオブジェや幼い子供の描いた稚拙な絵に飾られたエントランスは、
地方の現代美術館や、精一杯背伸びした小さなホテルのようなのだが、
ぬぐいきれない人工のアロエの香りが、ここが老人たちの棲家であることを
ひそひそと暴いてしまう。

母には奥の奥の個室があてがわれていた。
夜昼かまわず喚くからだ。

かまわずというより、夜と昼の区別がもはやついていない。

それでも口は別の生き物だから、本体の脳が呆けても、
手足が萎えても、動き続ける。

「羊羹もってきたよ。」

ベッドに近づいて、信彦は声をかける。

かつて母親だった物体は口をへの字に結び、天井を睨みつけていた。

返事どころか、視線すら動かそうとしない。
母親であるというポーズすらとる必要のなくなった今、
彼女のなかで信彦は、とうに存在しないものになっている。

彼女は認めたくはなかったのだろう。

不器量に生まれついて、旦那も不器量、息子も不器量。
全てが不当な扱いだと常に何かに怒リ続けた不幸な女だった。
その怒りが、いまも時折室内に木魂し続けている。


 



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