2階のひと

田山信彦は醜男だった。背格好もみっともない。

全てを与えられた人間がいるように、まったく何も与えられなかった人間がいる。

それが信彦だった。

頭脳も運動も性格もヒトに誇れるものではなかった。

明るくもなく、呑気でもなく、やんちゃでもなかった。

同級生たちのうっぷんばらしの的にならない方法はただひとつ、

「その存在に気がつかれないこと」。

信彦は、常に細心の注意を持ってめだたなくする努力を重ねた。

家庭でもやはり同じ事で、しかも教室と違い逃げ場もなく、癇癪持ちの母親にわけもなく日々詰(なじ)られた。

そして 決して感情を表わさず、反論はもちろん発言もしないで、うつむきがちに沈黙しているほうが、

結局攻撃は短くすみ、その分受ける傷も軽くすむことを学習し、その技術を密かに磨いたのである。

不美人だった母親は、美しい人々を軽蔑することで自分を保っていた。

父親もまた風采のあがらない小男だった。

母親の息子は、いや家族は、信彦の兄だけだった。

といって兄が特別出来が良かったわけではない。

ギリギリ世間並みの風貌の青年であったにすぎない。

けれど母は狂喜して、他の”美しい母親”たちと同様、いやそれ以上の施しを兄に与え続けた。

信彦はそれにひたすら気がつかないフリをし続けた。

その間に、兄はさっさと母を捨て、父が亡くなったりはしたが、40年近くがすぐ過ぎていった。

父の生命保険金で買ったこのマンションに、母親と2人で10数年、そして今は一人で住んでいる。


夜半、頭上の物音で眼が覚めた。

地の底から湧き上がる咆哮としか表現できない罵声が、天井から降り注いでくる。

信彦は時計を確かめる。針は午前1時40分を刻んでいる。

何度目かの”こんな夜”が来ていた。

咆哮は唸り、くぐもり、また荒ぶる。

信彦は思わず布団の上に正座して、天井を見つめた。

咆哮は 津波のように、地鳴りのように続いている。

繰り返し、繰り返し、時が永遠に停止しているかのように。

信彦の体は知らず硬くなる。

どんなにかすかな音も聞き漏らしてはならない。

突然、金属音のような嗚咽がカン高く罵声を裂いた。

嗚咽は高く細く長く長く、闇と咆哮とを切り裂いてゆく。

切り裂かれてできた空間のおかげで やっと息が吐けたのか、ちいさな泣き声が漏れてきた。

信彦の緊張は頂点に達しつつあった。

次の音だ。次の音を聞き逃してはならないのだ。

咆哮が止まった。

そして糸のほうに伸び続けた嗚咽もまた、ぷつりとやんだ。

ちいさな泣き声も消えた。

全ての音は止まった。

次の音はない。

周囲はまた元のなんでもない闇に戻っていく。

静まる闇を感じながらも、信彦はしばらく緊張が解けなかった。

物音を立てないように細心の注意を払いながらサッシをあけ、ベランダに出て、そっと2階の様子を窺がってみた。

黒々とした街路樹の陰が2階にかぶさるように揺れるだけで、人影の気配もない。

振り向けば、冬の月は冴え冴えと夜空に君臨し、マンションはいつもどおりの静寂に包まれている。

聞こえぬはずの寝息まで聞こえてきそうだった。

信彦はひっそりと息をひとつ吐くと、サッシを閉めて、改めて布団に潜り込んだ。

どうやら、今回もなんとかすり抜けられたらしい。

「・・そうだった」

まどろみかけていた信彦はあわてて起きあがる。

それは”こういう夜”の翌朝の”お約束”だった。  

米をといで炊飯器に仕掛け、タイマーをセットした。

これでようやく、もう一度布団に潜れる。

こんどこそのまどろみのなか、廊下を歩く靴音が 信彦の耳に響いてきた。

2階の主人のご帰還だ。

 



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