私はいつしかららを待ち望むようになっていた。

不思議な事に、ららが来る日はなんとなくわかった。

正確に言えば、来ない日がわかるといったほうがいいかもしれない。

今日はこないだろう、と感じる日は5時まで待ってもやはりこないのだ。

わかっていながらそれでも振り返ったり待ったりしてしまうところが、

実に情けないのだけれど。

とはいえ、相変わらず私とららの会話は弾まなかった。

長年表層を撫でるだけに留めていた悪習のせいで、いざまじめに知り合

いたいと思っても、うまい話題をみつけられなかった。

言いかけては、しくじった場合を思い、飲み込んでしまう。

ならばいっそ自分のことを知ってもらうかとも考えたのだが、不甲斐無い事に、

私は自分自身を語る言葉すら失くしていたことを、思い知らされただけだった。

ららは私の言葉には答えるが、めったに話しかけてこない。

話したければ(あるいは話してもいい事柄なら)、

それなりのサインをヒトというものは必ず送ってよこす。

ところが、ららにはサインのそぶりもない。

ならば追求するべきではないのだ。

私は自分にそう言い聞かせてしまうタイプだ。

かくて、いつまでもお互い黙り続けるハメになるのである。

けれど、なぜか空気は重くはならなかった。

もっとも私のほうは、どきまぎ焦ってて、

かなり息苦しかったりしたのだが。

ららのほうはまったく平気らしかった。眼をクリクリさせたり、くすくす笑い出

しそうになりながら私の言葉を待ってる様子が伝わってくる。

きっと足もぶらぶらさせてるんだろう。

そんな時もあれば、まったく空気の精であるかのように感情も体温も感じ

させない時があった。それはまるで、どこか遠い異空間へカラダごと思いを

はせてでも居るかのように。

「こんばんは」と別の誰かがはいってくると、内心ほっとした。

これで私は安心して、ららの愉快な嘘が眺められる。

映画好きと往年の名画を語り、音楽好きとは作曲家の嗜好比べを愉しみ、

議論好きには熱心にその論を拝聴し、詩人を相手には即興で詠んで見せ、

ワカモノ相手にはロシア文字や絵文字に興じる。

誰もがららをそれぞれの同好の士として疑わず、みな心地よく騙された。

ららの嘘吐きの才能は趣味の分野にとどまっていなかった。

巧みに空気を読むワザに長け、相手が心で望む言葉を吐いた。

落ち込んでいるものには、そのものが心に密かに守っている自慢の部分

を優しく褒めてみせ、しくじったものには思いも寄らない未来の光をその言

葉で示した。

追い詰められたものにはさりげなく逃げ場を示唆し、

引っ込みがつかなくなったものには微笑ましい助け舟をだした。

誰もがららの言葉に酔った。

それもららの作戦のひとつだったのかもしれない。

おそらく、誰もがららのことは知りたい、と思っただろう。

けれどケムにまかれて、話題を繰られ、ついつい自分のことを語っている間に

時間切れを迎えてしまう。

ららはそう仕組んでいる。
 
  ららは楽しんでいたのだろうか?
 
  なぜ、ららは私には仕掛けてこないのか。
 

  ららは何を思い、何を望んでいるのか。
 

  ららは 本当は何者なのか。
 

  ららはなぜ、私に逢いに来るのか。
 

  私になのか。

気が緩むと、気泡のように浮かんでしまうそんな考えを、

私はその都度あわてて潰した。

"本当のこと”は優しい顔をしているとは限らない。

探究すると、ときに破壊を呼び寄せる。

棲みついて以来、イヤというほどみてきたネットの世界の一面だった。

そう、私は臆病者だった。

滑稽だろ。




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