朝の日差しで少年は眼を覚ました。

弟はまだ眠っていた。

父親はとうに着替えを済ませて、ヒゲを剃っていた。

仕事に行くらしい。

無言で眺めている息子に、父親のほうが気がついた。

「おう、ユウゴ。ケンゴは?」

少年は父親を見たくなかった。

「まだ眠っている。」

「そうか。」

父親はコートを羽織ながら少年の部屋に入り、弟を揺り起こす。

「ケンゴ・・・、ケンゴ・・・、幼稚園いくぞ?」
 
少年は時計をみた。7時30分にもならない。
 
幼稚園が始まるのは9時なのに。

父親は尚も弟を揺らす。

弟はなかなか起きない。

「ケンゴ、起きろ。おとうさん電車の時間があるんだよ。早く起きろ。」

少年は言いたくなかった。本当に言いたくなかったのだ。

けれど口にだしてしまっていた。

「おれが連れて行く。」

「そうか?」

送り役をあっさり譲ると父親は急ぎ足で玄関に向かった。
 
靴を履き終えてから、憮然と立つ息子に、若干申し訳なさそうに伝えた。

「何とかするよ。とりあえず、今日は早めに帰る。」

「親父」

少年は口を開いた。

「お?」

玄関を出ようとした父親が振り向く。

「金、置いていけよ。」


弟は起きていた。昨夜のようにちょこんとベッドに座っていた。

昨夜のように泣いてはいなかった。

兄の顔を見ると、きょとんとした声でいった。

「おなかすいた。」


冷蔵庫の中に残っていた食パンを渡すと弟はもしょもしょと食べ始めた。

少年が制服に着替えて戻ってきても、焼いていないパンをまだ食べていた。

時刻は8時10分を過ぎていた。中学校の始業時間は8時30分だ。

少年は少し考え、そしてカバンを椅子に置いた。

通学には禁止されている自転車のサドルに弟を座らせる。

自転車を押し始めた少年に、弟が言った。

「きょうのおべんとうは?」


コンビニの前に自転車はまた停まっていた。

少年がぶっきらぼうに告げる。

「おにぎりでいいな?」

「ケンゴ、シャケがいい。シャケ食べる。シャケ。」

今回は弟の希望が叶う。鮭はちゃんと棚に並んでいた。
 
少年は鮭のおにぎりを2つ買い、弟のカバンにコンビニの袋ごと入れてやる。

幼稚園に着くと、昨日の教諭がわざわざ園舎からでてきていた。

サドルから下ろされた昨日の服のままの弟の頭を撫でている。

そして戻ろうとする少年に告げた。

少し申し訳なさそうに。

「今日のお迎えは1時20分です。」

少年は顔を少しだけ振り向かせ、無言で頷いた。

我が子を送ってきたヨソの母親たちの視線や、

聞こえない言葉には気がつかないフリをして、少年はペダルを踏んだ。


あてなく自転車を走らせていたら、あの空き地についてしまった

冬に差し込む日差しの中に、もうおっさんが腰掛けている。

まるでいもしないハトに餌をやる老人のようだ。

「どうした?少年。まだ朝のうちだぞ。」

おっさんが微笑むようにつぶやいた。

「おふくろがいなくなった。」

雲を貫いた幾つもの冬の日差しが、2人の間をゆっくりよぎっていった。

「そうか。」

そう答えると、おっさんは唄でも唱えるかのように続けた。

「そりゃあ・・・難儀だなぁ。」

それは、古い懐かしい唄の一節のようにも聞こえた。

少年はさっきのコンビニで自分の分も買えばよかったとぼんやり思い返していた。



家に帰った少年はPCのマニュアルを見つけ出した。

リカバリーディスクもある。

PCのキーボードのすぐ傍の引き出しにきちんと並んで入れてあった。

プロバイダのIDやらパスワードやらのメモも一緒にあった。

そして、引き出しの中にはそれら以外何も入れられてなかった。

そうしてインターネットに接続することはできた。

いきあたりばったりに検索をかけてみる。

特に何かを探していたわけではない。
 
しかし窓は開いていった。

そして、そこには世界の“一部”があった。

現在のこと、過去のこと、政治、経済、文学、歴史、音楽、美術。

学問から世間の下世話まで、窓は次々開いていく。

いつしか少年はそこに引き込まれていた。

眼はひたすら字を画像を追いかける。

なるほど“新しい世界”が開いたらしい。

ふと、母親の笑う声を聞いたような気がして、少年はわれに還った

そういえば母親の笑う声を聞いたのは、いつだったのだろう?

最後に言葉をかわしたのはいつのことだったのか。

気がついたときには、時計は午後の一時を過ぎていた。

少年はあわててPCの電源を切った。


少し遅れたようだがまだ園庭では子どもたちがはしゃぎ、

母親たちがにぎやかに話していた。 

少年をみつけたあの教諭の顔がほころぶ。

少年は無言のまま眼だけで弟を探す。

弟は他の子どもたちと一緒に滑り台のところではしゃいでいた。

兄をみつけると急にまじめくさった顔つきになり、小走りで兄の傍に寄ってきた。

互いに無言のまま兄弟が園を出ようとしたとき、声が2人を止めた。


「あのう・・・」


後ろには5,6人の母親がそれぞれの子どもを連れて立っていた。

一人が口火を切る。

「あの、あたしたちでケンゴちゃんを預かろうかと思って」

「明日から交代で、一緒に家に連れて帰るわ。」

「うちの子たちと遊ばせて夕方になったらおうちに送っていく」

「だって、学校あるでしょ?・・・お迎え無理でしょう?」

母親たちが口々に告げてくる。

一瞬事態が飲み込めなかった。

ひとりの母親がおずおずと付け加えた。

「あの・・・なんでも言ってね?」

その母親たちは一様ににこにこと笑みを浮かべようと努力しながら,一心に少年を見つめてる。

少年の心はむしろざわついた。

大きなお世話だとも思った。

背後で別の母親たちがひそひそする様子も届いていた。

でも反発するのも煩わしかった。

同時に”母親たちのネットワーク“というものが恐ろしく速い、ということもよくわかった。

「なぁに、なぁに」

弟が小声でしつこく聞いてくる。

ちっ、しょうがない。
 
少年は弟に説明するのに、一番楽な事象を選んだ。

「・・・明日から幼稚園が終わったら、トモダチのウチで遊べる」

兄の説明を聞いた弟は急き込んでつづける。

「きょうは?」

「今日・・・?」

少年はどきりとした。そんなこと俺に聞かないでくれ。

しかし戸惑う兄が答えるより早く、母親のひとりが華やかに笑った。


「いいよぉ。ウチくる?」

「いく!わぁい」

弟の歓声に、周りのこどもたちが一斉に叫んだ。

「わぁい。」

母親たちが笑い出す。先の母親が答えた。

「いいわ。今日はみんないらっしゃい。」

その場の皆が笑ってた。少年を除いて。 

そして背後のそこここに集まる少しずつの母親たちも除いて。



炊飯器の様子は何とか飲み込めたので米を炊いてみることにした。

スイッチをいれた機械はちゃんと動き出す。

中学校の担任から電話がかかってきた。

「明日はいきます。」ソレだけ告げて、相手の用件が終わるのを待たずに切った。

暗くなり始めた頃、「バイバーイ」というこどもの甲高い声が響き、弟が帰ってきた。

ちょうど炊飯器も任務を終了したらしい。

弟の茶碗に飯をよそい、冷蔵庫に残るタマゴを割ってやる。

醤油がかけられると、弟は米粒をとばしながらスプーンで混ぜていた。

「トモクン、ゴジラみてきたんだって。」

ほおばりながら弟が言う。

少年は米だけで夕飯をすませた。今日も塾には行かない。


8時を過ぎたとき、父親が弁当をぶらさげて帰って来た。

きのう少年が調達できたのと同じものだった。

「お?メシ炊いたんだな。」

台所の様子をみて父親が言った。早い帰宅に弟がはしゃぐ。

「ケンゴ、おとうさんとオフロはいるか?」

父親の提案に、弟の異論があるはずもない。

上機嫌で風呂場に向かう2人を見送ると、少年は自分の部屋に戻った。

大騒ぎで風呂の湯を入れる音が聞こえてきていた。


「ユウゴ、おまえもはいってしまえ。」

裸のままタンスを引っ掻き回しながら、父親が言っている。

父親の周りをやっぱり裸の弟が走り回っている。

ようやく、父親は息子と自分の衣類を探り当てたらしい。

「さて、今日はおとうさんとねるか?」

服を着せながら、弟に父親がいっている。

そして2人は父親が部屋代わりにしている3畳間へ引き上げていった。


「ケンゴ寝たからな。」

いつのまにか父親が部屋にきていた。

少年は数学に取り掛かっていた。顔をあげることなく黙々と問題集をこなす。

息子の背中に父親は語る。

「明日から1時間遅く出るようにしてきたから、幼稚園へはオレが送ってくよ。

それと派遣のヒトを頼んだからメシやら掃除やらしてくれるはずだ。

頼めば幼稚園のお迎えもしてくれるそうだ。」

「・・・幼稚園のトモダチの家が昼から預かってくれる。」

少年は方程式を解きながら(解いてる様にみせかけながら)それだけ言った。

最後まで振り向きはしなかった。父親の顔は見なかった。




 きーぅぅぅ・・ひーぃぃぃ・・・

ベッドの中で眼だけが開く。

弟が泣いている。

少年はまた眼を閉じた。

今夜は父親に任せればいい。

弟はまだ泣いている。

少年はひとり、弟の暖かさを思い出していた。

 


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