弟が見上げてる。どうするのだろうと見上げてる。うっかり自転車できてしまっていたのだ。

  少年は黙って自転車を押して歩き出した。弟は小走りで後を追う。

 だがどうしても遅れてしまう。幼いのもあるが、元来がトロい。

 少年は立ち止まり弟を見つめた。咄嗟に弟は塊となって小さな両手で頭を覆う。

 固まった弟をひょいと担ぎ上げると、少年は弟をサドルにまたがらせ,再び自転車を押して歩き出す。

  弟がこっそり笑みをこぼした。
 
 「どっかにちゃんとつかまってろよ」
 
 少年が短く返した。


 家に一番近いコンビニエンスストアの前で、少年は自転車を停めて弟を降ろした。

 「はいるの?はいるの?」弟の目が輝いている。

 店内は比較的空いていた。今日のランチの争奪戦は終わったのだ。
 
 少年は頭の中で金額を概算しながら、乏しい棚を物色する。弟はお菓子の棚にいったらしい。

 とにかく腹が減っていた。

 「ケンゴたまごがいい。たまごのサンドイッチ、とって」

 いつのまにか足元にへばりついた弟がキィキィ喚く。

 たまごのサンドイッチは残っていない。

 「タマゴはもうない。」

 「いやだ。たまごがいい。たまごのたべる。たまごの食べたい。」

 少年が見下ろす。弟はまた小さな塊になり、頭を両手で覆う。

 弟に与えられたのはこぶしではなく、ツナサンドだった。

 「それに、タマゴも入ってる。」少年はレジへと向かう。
 
 弟はあわててサンドイッチを兄の持つかごに放り込んだ。「タマゴもはいってる。」とつぶやきながら。
 
 “そうか。夜の分もいるかもしれないんだ。”少年は棚を振り返った


 「おかあさん、どこ?」

 弟がそう聞いたのは、ツナのサンドイッチを食べ終えてからだった。

 「知らねぇ。」

 少年は温めていない弁当を口に運びつづける。

 「おかあさん怒ったの?」

 「・・・知らねぇ。」だけど弟は畳み掛けてくる。

 「ケンゴがクリスマスないのイヤダっていったから?」

 少年はペットボトルのお茶を飲み干して弟を睨み付けた。

 「知らねぇ」


 弟はおもちゃを広げ始める。

 少年は母親がいつも使っていたPCを思い出した。実はいじるぐらいはできるのだ。

 ハッカーを気取る同級生と関わっているうちに使い方くらいは覚えれた。

 学校にも何台かは常備されているし、申し訳程度の授業もあった。

 電源をONにしてみる。

 PCは初期化されていた。母親は確信犯だった。

 「ビデオみていい?」

 兄の背中に弟の声が響く。

 「勝手にしろ。」

 少年はPCの電源を切った。

 少年は少年の部屋の机に座ると参考書を広げた。

 月曜には推薦高校の入試がある。母親も知っているはずだ。何しろ母親が選んだ高校なのだから。

 文字が目に入らなくなるほど暗くなり始めて、ようやく塾へ行く時間が来ていることを思い出した。

 同時に広げていた参考書が数学だったことにも気がついた。

 つけっ放しのTVはくだらないドラマの再放送を流していた。
 
 弟はTVに背を向けて、なにやらおもちゃと話しながら、おもちゃの中に転がっている。

 窓の外は既に真っ暗だった。
 

 少年は塾にいくのをやめた。


 昼と同じ弁当を弟にもわけてやる。今度はレンジで温めた。

 早々に弟のための布団を敷くと、少年は自分の部屋にこもった。

 既に攻略したゲームのデータを消して、一からやり始める。

 話はトントン展開する。

 あたりまえだ。

 道筋も手順も隠された仕掛けもワナも熟知している。

 出てくる敵キャラやボスの攻撃方法も弱点も知り尽くしている。

 負けるわけがない。モタツクわけがないのだ。

 やがて少年は扉の影から覗いている弟に気がついた。

 弟はいつも母親と一緒に寝ていた。

 「・・・おれのベッドに、はいっていてもいいぞ。」

 少年は眼を画面に置いたまま、指を動かし続けながら、感情を込めないように言った。

 弟はすばやくベッドにもぐりこんだ。

 最終ステージを迎える頃日付がかわっていた。

 弟はとうに眠ったようだ。

 エンディング画面を確認すると、少年は食卓のある居間に戻った。

 おもちゃを押しやって敷かれた誰も眠らない布団を横目に椅子に座る。

 そして待った。

 父親が帰ってきたのは3時を少し過ぎる頃だった。

 いつものように少し酔っていたのだが、部屋についている灯りよりも待ち受ける息子にすこぶるギョ

ッとしたらしい。

 「どうしたんだ・・・?」

 酔いながらも体を硬くする父親に舌打ちしたくなる。

 包丁でも持っていればよかったか。

 「おふくろがいない。」少年は父親に告げる。

 「・・・いないって?」

 父親は逆に落ち着きを取り戻したようだ。

 コートと上着を脱ぎながら言う。

 「どこ、いったんだ?」

 オモイッキリ怒鳴りたくなった。なんとか押さえて吐き捨てる。
 
 「知らねぇよ」

 父親はネクタイを引っ張ってはずしながら、誰も眠らない布団に転がった。

 「いないって、か・・・?」

 トロンとした眼で父親は繰り返す。

 そのとき、少年の耳に奇妙な音が聞こえてきた。

 キュともヒィともつかない奇妙な音だった。

 きー・・ぅぅぅ、ひー・・・ぃぃぃ、

 眠っていたはずの弟が、ベッドにちょこんと座って泣いていた。

 居間に取って返すと、父親はイビキをかいていた。

 弟はまだ泣いている。座り込んで眠ったまま泣いている。

 「泣くな。」

 少年の声など弟には聞こえていない。

 きぅぅ、ひぃぃ、と涙をこぼしながら泣き続ける。

 少年は弟を殴っていた。

 けれど弟は小さな手で覆うこともしなかった。

 同じ姿勢で、同じ声で、ただ泣き続けた。

 「泣くな。」

 少年は弟を無理やり横にして、ともに布団をかぶった。

 弟は小さくてとても暖かだった。

 少年は弟の頭の殴ってしまった所を知らず撫でていた。

 兄の腕と布団に包まれて弟は泣くのを止めた。

 そしてそのまま、また眠ったようだ。

 


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